神の存在

最近、財布を代えた。高校に入った時に買ってもらったものでかれこれ5年以上は使い続けていた。

トリコロールの合成皮革で、えも言われぬおしゃれさからずっと愛用していた。トリコロールの白地にはジーンズの藍がうつり、縫い目はほつれ、もうすっかりボロボロだった。

 

ところで、金運と財布の色の迷信についてご存知だろうか。金、及び黄色に近い色をした財布は金運を呼び込み、赤い財布は金を燃やしてしまうといったものだ。

 

最近、株取引が上手くいかず、アルバイトも落ち続けもうすっかりやせ細ってしまったトリコロールのボロ財布。確かに彼は赤かったが紛れもなく幸運を呼び寄せてくれたのもまた事実だ。

私は元々物欲が強くなく、諦めが早い人間故に金遣いが荒くないから零細収入でも何不自由なくのうのうと呑気に暮らすことができたのかもしれないが。

 

ずっとずっと愛用するつもりだったトリコロールの財布。愛用するならばそれ相応のメンテナンスを行うべきだったのかもしれない。また店に行けば置いてある、という甘い考えを早く捨てる必要があった。

 

私は、文系ながら道を踏み外して理系の道を志しているが神、あるいはそれに類似する全知全能のグレートなサムシング、またはよりミクロなグレートサムシングは存在していると思っている。

神の存在を感じたことはあるだろうか。例えば、連鎖的に不幸が続く時、神を呪ったことはないだろうか。もしくは幸運を手にした時、神に感謝をしたことはあるだろうか。

 

私は、神というものはきまぐれで傲慢な悪魔の1種だと考えている。

私達の預かり知らぬところで私達に試練を与え、またある時はきまぐれな幸運を振りまく悪魔。

 

きまぐれに私達を生かし、きまぐれに私達を殺し、嘲笑う悪魔。神を試してはならない、そんな都合のいいタブーで保身する外道。

 

葉書には「残された日々を穏やかに過ごせるように祈ってください。」と綴られていた。

私は一体誰に祈りを捧げれば良いのだろう。果たしてこの過酷な試練を与えたもうた神に祈りを捧げれば良いのだろうか。

 

どうしてこうも不条理が、横暴が、許されてしまうのだろうか。

ただただかなしい